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☆Alice's Review☆

  タイニイアリスで上演された作品の劇評たち ―Crazy Tea Party―
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劇団May「夜にだって月はあるから」__鹿島 徹
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     友人に誘われて劇団 May『夜にだって月はあるから』(金哲義作・演出、2010年1月30日)を観た。偶然にもひとしい出会いである。特段の予備知識もなく、演劇通でもない。だが、あえて言おう。私はそこに驚嘆すべき舞台、比類ない名作を見た、と。

     周到に組み立てられたプロットを、主人公のモノローグによる舞台回しで巧みにストーリー化してゆく台本。

     スピーディな場面転換により時間に無駄な経過の余地を微塵も与えず、ミニマムな装置と衣装で最大限の舞台効果をあげる演出。

     演劇に特有な誇張の動作はあっても、一つひとつの挙措を一分の隙もなく演じる役者たち。

     あたかも各曲がこの舞台のために新たに作曲されたかのような、卓抜な選曲の音楽。

     思わず息を呑む、迫力あるパンソリ(朝鮮民俗唱劇)のうたと踊り。

     エンタテインメントの要素も十分に盛り込んで、観る者を魅了しながら、しかもテーマは、戦後朝鮮半島史のなかでもきわだって重い「済州島四・三事件」である。

     舞台は、若い女性九人によるパンソリの群舞をもって幕を開く。そして在日朝鮮人三世の青年二人が、在日一世の年老いた男・李春太(リ・チュンテ)を訪れ、彼の戦前戦後の体験についての長い回顧談を聞く、そうした設定のなかで展開されてゆく。

     その劇中の回想は、まだ十四歳の春太が、親友の潤平(ユンピョン)とともに故郷の済州島をあとに、大日本帝国の「内地」へ出稼ぎに行く場面からはじまる。大阪の縫製工場で、神戸の工事現場で働きながら彼が経験した、朝鮮人差別、軍事体制・言論統制の強化、そして「玉音放送」による「終戦」。それらを象徴的に描いたあと、舞台はやがて青年となって朝鮮戦争期に大阪に在住しつづける春太の、一年、あるいは半年にも満たないわずかな期間のエピソードに焦点を当てる。

     終戦直後には、民族学校を守るための闘いに参加するなどした春太も、一九五〇年代初頭のこの時期にはすっかり政治に関心を失い、鉄屑を売りさばく金儲けをもっぱらにしていた。今では「北」と「南」の立場に分かれていさかう、かつて仲の良かった友人二人をなんとかなだめて、パンソリマダン劇の古典『沈青伝』を三人で観にいった彼は、戦前の観劇体験に基づく「劇を見る目」を買われて、その女性劇団の演出家となる。最初の稽古の日、彼を待ちかまえていたのは、団員の一人・貞仙(チョンソン)に一目惚れするという、思いがけない出来事であった。

     しかしこの女性劇団の活動には、ある秘められた事情があった。彼女らは最初は隠していたけれども、じつはいずれも春太と同じ済州島の出身であった。その故郷で1948年の4月3日にはじまった事件のなか、多くの隣人が、そして家族が虐殺されるさまを体験し、文字どおり「家族や近隣の人々の死体に隠れて」命がけで日本へと脱出してきた。こうした彼女らが集まって劇団を結成し、各地を公演して回っているのは、かつて「内地」に移住し今でも住んでいるはずの家族を探し、ひと目再会を果たしてから、自分たちだけで共に故郷の済州島に帰るためにほかならない。殺戮のいまだ続くあの島に戻ることは、死を選択することを意味する。そうした事情を知って驚き、自分と同じように日本にとどまれないのかと叫ぶ春太に、団長格の君淑(クンス)は突き放すように告げる。「あんたたちとあたしらは違うんや。あの出来事があって、違う歴史を生きるようになったんや」、と。

     最後の公演、演目はこれもマダン劇の名曲『春香伝』である。その公演期間中に、しかし悲報が入る。団員の潤恵(ユネ)の兄であり、春太の親友でもある潤平が、1945年8月10日に戦病死していた、との悲報である。劇団はかくして、メンバーのだれもが家族に会えずに終わった。だが春太の励ましのなか、『春香伝』をハッピーエンドにいたるまで見事に演じ終える。千秋楽の終演後、彼女たちが舞台から立ち去る、その場面が春太との最後の別れと重なったところで、「君はなぜ死ぬと分かって故郷に行くんや」と訊く春太に、貞仙は「そこが自分の故郷で、自分の家族がいた場所、死んだ場所。それ以上の理由なんていらないでしょ」と答えて、微笑みながら立ち去り、これをもって老いた春太の長い独白が終わる。

     劇はそのあと、最後の最後に意外な転回を見せ、満場の哄笑を誘って幕を閉じるのだが、それについては、再演を観る方々のために、ここでは伏せておくことにしよう。

     この作品には幾重にも悲しみが折り畳まれている。

    「朝鮮訛り」でたどたどしく語りだされる日本語の台詞まわし。「帝国臣民」として生まれ、「皇軍兵士」として死んだ潤平の生涯。村ごと焼きつくされて地上から消滅したと彼女らの口から伝えられる、春太の故郷の運命。女も社会のために働ける時代がやってくると聞いて一所懸命勉強した結果が、軍人に「アカ」だとされ、その「アカ」の家族だからといって愛しい父母きょうだいが殺されることになったと、春太に向かい貞仙が切々と回想する、詠唱にも似たモノローグ。

     これらは言うまでもなく、日韓併合から朝鮮戦争にまでいたる歴史的経緯を背景にもっている。その意味でこの劇は歴史をめぐる、とくには悲痛な体験についての記憶の語りをめぐる作品であるわけだが、そこに卓抜なしかたで発揮されているのは、演劇的構想力による極端化の手法とでもいうべきものにちがいない。

     現実にはありえなかっただろうあの劇団を作中に仮構することにより、殺戮を体験した者たちと遠い地で望郷の念を抱くにとどまる者たちとのあいだの、決定的な亀裂が浮かび上がる。劇団のリーダー・君淑が語るように、あの事件によって彼女ら彼らは、それぞれ「別の歴史」を生きるようになった。終戦まで同じ「帝国臣民」でありながら「朝鮮人」と差別されることにより負のアイデンティティを背負い込まされ、「終戦=光復」とともにそのアイデンティティを肯定的なものに転じたはずの彼女ら彼らは、その後数年を経ずして南北に分断されただけでなく、事件を身をもって体験した者とそうでない者へと分断されもすることになった。劇中の言葉を使えば「北」と「南」にだけでなく、「西」にも「東」にも引き裂かれることになったのである。過去の記憶の共有、歴史の共有が、人々に共同性を付与するのだとするなら、主人公と劇団員の断絶と別離、とりわけ主人公とヒロインの二度と再会することもかなわぬ悲恋を描くことを通してここに「劇的」に示されているのは、四・三事件により引き起こされた「歴史と記憶の強いられた複数化」という事態なのだ。

     思うに、事件を体験した当事者の記憶の語りを困難にするのは、たんにその体験が「言語を絶した」もの、想起するだけで苦痛を生み出すものだとの事情にのみよるのではない。事件の当事者だというだけで周囲の偏見・排除、もしくは逆に過剰な遠慮をもたらしかねない、との事情にのみよるのではない。これらに重ねてその困難は、この「歴史と記憶の強いられた複数化」という事態にも根ざしているのではないか。語ることによって歴史の共有が、そしてそれによる何らかの共同性の獲得=保持が可能になる、という希望をもつことなしに、人は悲惨な体験をあえて語ろうとすることはないだろうから。

     だが舞台では、みずからが悲恋というしかたで体験した亀裂と断絶を、老いた主人公・春太が、数十年の時をへだてて二人の若者を相手に回想してゆく。亀裂は鮮烈な記憶のなかに再び呼び戻されるのであり、その回想によって彼の死とともに風化し消滅することなく、亀裂のままに語り継がれてゆく可能性を帯びてくる。「亀裂と断絶の記憶による歴史の共有」ともいうべきものの可能性が、ここに浮かび上がってくるのであり、このことによって本作品は単なる哀悼劇には終わらず、かすかにも光明を仰ぎ見るものとなっているのである。『春香伝』劇中の主人公・夢龍が春香に向かって語る希望と励ましの台詞「夜にだって月はあるから」をタイトルとするゆえんが、ここにある。舞台が全体としてある華やぎに彩られ、ユーモアの要素を要所に織り込んでいることもまた、この点に照らして深く首肯しうるにちがいない。

     私は先に、極端化の手法と言った。これは両極化とも、単純化とも言い換えていい。

     というのも、「済州島四・三事件」についてはまことにさまざまなことが語られ、相矛盾する証言、相対立する見解が存在するからだ。そもそも多くの体験者が沈黙のままに世を去り、痛苦の見聞についての記憶の語りが、もはや取り戻すすべもなく永遠に「あちら側」へと没し去ってしまったからだ。そうしたなかでこの劇は、事件を体験した者とそうではない者とのあいだに明瞭な線引きを行い、両者の断絶を強調し主題化するしかたでストーリーを展開させる。「北」と「南」の対立が主人公の二人の友人によって象徴されるように、体験者とそうでない者とのあいだもまた、綺麗に二つに区分されてゆく。

     ここに問題を見る向きもあるかもしれない。この両極化・単純化によって、体験者内部にも見られたであろう亀裂や葛藤、体験しなかった者の無念と対立、そして相互の交錯といったものが隠蔽されてしまうのではないか。あまりに滑らかな物語の進行が、観る者の目を事柄の極度な複雑さから逸らす結果になるのではないか。直接の体験者もそうでない者も、さらには事件が終息したとされる時点からはるかのちにそれを知った者も、事件の衝撃のなかでさまざまに入り乱れつつ堆積する諸問題を背負い込み、各人それぞれ異なった独自の「歴史」をその矛盾のままに生きるようになった。そうした事態が、ここに置き去りにされてしまっているのではないか、と。

     じっさい「四・三事件」については、事件当時、京都・大阪に在住していた金石範(キム・ソクポム)の短篇集『鴉の死』(1967年刊)にはじまり『火山島』全七巻(1976-97年)にまでいたる、驚異的な文学的想像力と稠密にして雄勁な文体による小説群がある。事件を体験した詩人・金時鐘(キム・シジョン)の、半世紀にもわたる沈黙がある。だが在日三世の手になる今回の舞台は当然にも、そうした先行者の表現/沈黙を承知したうえで構想されたはずだ。演劇の次元でいえば、本作品を含むタイニイアリスの連続公演企画「釜山⇒ソウル⇒東京⇒大阪⇒バグダッド⇒チュニス 競演東西南北」で上演されたバクダッドの劇団ムスタヒール・アリス(mustheel-alice)『アブグレイブ(Abu Ghraib)』(ヤーセル・アブダルラザーク作、アナス・アブダル・サマド演出)は、フセイン政権期と米軍占領下とにわたりアブグレイブ刑務所に収容されたまま非業の死を遂げた音楽家を友人にもつ団員によって、台本が書かれた。そこではセノグラフィ演劇と呼ばれる独特の黙劇手法により、埋葬時に死者を包む長い一枚の白い布と銀色に光る蛇腹状の何本もの太い筒とを用いて、抑圧・戦争・拷問・死の恐怖と悲惨が描き出されてゆく。そうした「前衛演劇」の作風を一つの可能性として視野に入れての今回の作品であろうこともまた、推測にかたくない。

    そもそも「四・三事件」について知る機会そのものが、日本ではごく限られているのが現状である。韓国では1999年に四・三特別法案が国会で議決され、2003年に現職の大統領が現地を訪れて公式の謝罪を表明したのにたいし、戦前の植民地支配、8月14日ポツダム宣言受諾、朝鮮戦争特需を契機とする経済繁栄などを通して直接・間接に深いかかわりをもつ日本では、中学・高校の歴史教科書でこの事件を記すものは皆無だといわれる。そうした状況のなか、この劇は舞台そのものの完成度・強度をもって、観る者の目を「四・三事件」へと向け、その複雑な様相についてのさらなる理解の扉の前に導いてくれる。たとえばこの私がそうであるように、文京洙(ムン・ギョンス)『済州島四・三事件』(平凡社、2008年)を読む機縁を、それは与えてくれる。「済州島四・三事件の記憶と文学」という副題を冠した金石範・金時鐘『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか』(平凡社、2001年)を読む機縁を与えてくれる。さらにはそれらにも導かれて、済民日報四・三取材班『済州島四・三事件』全六巻(金重明ほか訳、新幹社、1994-2000年)を手にする機縁を与えてくれる。

    もちろんその「さらなる理解」とは、袋小路にも似た「困惑」と同義なのかもしれない。最終的な理解などといったものを拒む輻輳する事象群に直面し、ひたすら立ち尽くすに至る営みなのかもしれない。理解不可能性と断絶、永久に修復不可能な亀裂。しかしそれはほかでもない、この作品の主題であることに注意しよう。みずから歴史の記憶・記録(あるいはその不在・沈黙)に接してこの断絶と亀裂に向き合うこと、そしてそのことによって各人それぞれの立場から、断絶と亀裂の記憶の伝承にわずかなりとも参画すること。そうした営みへと観る者をいざなう作品として、この舞台は比類ない演劇的訴求力を発露させているのである。

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