SELECTED ENTRIES
RECENT COMMENTS
  • 京都芸術センタ−「国家 Nation국가」__西村博子
    タイニイアリスの暗部 (12/12)
  • MAR「個人重力」/ドンニョク「バリデギ」__
    高野裕平 (07/07)
  • DULL-COLORD POP「小部屋の中のマリー」__GRASSHOPPER
    GRASSHOPPER筆者 (07/28)
  • タッタタ探検組合「ハイパーおじいちゃん3」__大野美波
    松嶋理史 (07/08)
  • 劇団池の下「葵上」「班女」__ZUMOMO
    zumomo (04/19)
  • 劇団鹿殺し「SALOMEEEEEEE!!!」__青柳 舞
    (07/26)
  • 東京サギまがい・ゲツメンチャクリク「お化け屋敷の中〜断髪したライオン達〜」__西村博子
    愛 (07/12)
  • 桜会「P―天才って何?―」 __西村博子
    桜会 制作 (05/20)
  • E.G.WORLD 掘屬澆砲いフツウの子〜突然変異は、未来の常識」 __西村博子
    桜会 制作 (05/20)
  • Big Smile「paper planes」 __西村博子
    simone (03/18)
RECENT TRACKBACK
CATEGORIES
ARCHIVES
MOBILE
qrcode
LINKS
PROFILE
OTHERS

07
--
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
--
>>
<<
--

☆Alice's Review☆

  タイニイアリスで上演された作品の劇評たち ―Crazy Tea Party―
<< KANIKAMA「Collection番外編」、Empty Space「Two Policemen二人の警官」__西村博子 | main | 激団リジョロ「アルケー//テロス」――西村博子 >>
ドラマツルギ×2011 全体講評_ドラマツルギ×2011選考員・河崎純(コントラバス・音楽家)
0
    なぜ私達はこうして「物語」を必要としているのでしょうか?

     まず全体として、戯曲の言葉も、声も、声にならない声も含めてもっと端的にいって美しく愛おしいはずなのに(そうあってほしい)、と思われました。

    書かれた言葉や、日常会話や呟きに対して、わざわざ舞台の上で発する言語活動とはどのようなものか、そのような営みが、どんな自覚的問いにによって支えられているか。いま発しているその言葉は、なにと交感し、響き合い、乱反射しているのか。言葉と声の関係。無数の私と無数の他者を背負った声、何者でもない声。
     そしてそもそもそこにある物語や台詞を「演じる」という欲求や衝動はどこから来るのでしょうか。そういった問いの境界線上に存在する声や言葉、それらが「物語」をつくる、いやそれが物語なのかもしれません。そこから始まる物語。無数の声の模倣を意識し、ただひとつの声を聴かずには、探さずには、生きてゆくことが困難な、そんな欲求や衝動から。

     しかしいま、言葉や身体によって演じられる「もう一つの世界」が、潜在的にどれほどに求められているだろう。それは先の大震災でわれわれが実感したはずのことである。生と死の臨界を目の当たりにし、やがて耳を澄まし、探す。祈る、、祈らない。その声で。身体で。それは捏造された「ドキュメント」であるはずがない。いま東京の地下で。

     東京の地下で5つの「演劇」を観て、わたしとしては、言葉の意味が分からない故にか、「MAY」のお母さんの日本語や、とりわけ海女さんたちの韓国語のところがいちばん美しく感じてしまいました。

     では、そこで何が演じられていたのか。


     まず感じたのは、全体的には、戯曲に語らせ過ぎかな、ということです。また、作、演出というパターンが多かったですね。役者、あるいは語そのものより、作家や、演出家の声や主張がきこえすぎると、生の舞台空間の出来事としての必然が希薄なように思いました。

     しかしなおそれでも物語を書いて、しかも舞台の上で上演することへの欲求の源はどこにあるのか。また共同でそれを表現するという営みは、私達自身に、表現者自身にそして社会に対してなんであるのか?私自身が生きるためにはどうやら、傍らにフィクション「わたしの物語」が必要なようです。一方音楽家、創作家としては、つまり「わたしたちの物語」を見い出すことは出来ません。社会には安易に物語化があふれ、たとえばテレビニュースというノンフィクションにBGMがついているのです。つまりドキュメントとしての出来事ですら「商品」と「消費」を背景に物語が成立しています。それを無意識に受け入れ無意識に共有し、この捏造,物語化に違和感を覚える人はそれほど多くない。対してわざわざつくられる舞台の上の虚構(物語)は、いつでも空虚で、しかしいま、それでも演劇する動機は「自己表現」や「自分探し」以上にもとめることができるのでしょうか?
     しかし本来、劇場は自意識を超克し解放される開かれた空間ではないでしょうか。劇場は、「わたし」ではなく「わたしたち」の物語という虚構を探し求める場なのかもしれません。そうでなければ、作り手も観客も、「わたしの物語」を探す、とりのこされた自意識の痛々しい場になってしまうように思います。

     このたびの上演作品は作劇時において、それはいわゆる「野外劇」という意味ではなく、その声や身体が、雨や風やお日様や、収容所や独房や老人ホームや戦地や被災地や、あなたの部屋、で存在することもまた、どれほどに想像されているだろうか。大きな意味での「劇場」からの逃走。もちろんマダン劇はそもそも違いますけれど。しかし同時に、劇場という空間はそういったすべてを背景にした場であるとおもいますし、あるいはそういった現実の裏側を描いてみせてくれるファンタジックな物語が形成される場であるのだと思います。

     そしてまた、その空間として劇場という場や機能自体をどれほどに異化できていたか。たとえば、その小ささ、舞台と客席という境界、一時間強という時間、短い転換など様々な枠組みのなかで、声や身体で空間と時間を変容させようとしていたか。さらには「演劇」や「フェスティバル」という枠組みに対して。

    このたびの「フェスティバル」や「劇場」は、そういったことを考えるための場として機能してゆこうとしているのだと思います。

    そんな視点、作劇法という観点で、みなさまの力作の中から、正直に自意識と葛藤しながらも、開かれた場をなんとか模索しているような「たまごぷりん」を選出させていただきました。

    タマゴプリン

     さまざまなコミュニケーションツールが試みられていた。おそらくはエチュードを通して、「もっとも身近な愛」という、しかしそれゆえにディスコミュニケーティブなテーマを共有し、答え難い問いに対して、共同で仮説をたてていったことが、舞台の上の出来事としてたちあがっている。これらの方法は、作品としての劇場公演という枠組みが想定されているだけではなく、ワークショップ的な開かれ方でなので作品自体が開かれていくことに繋がる。舞踊にたとえればすなわち、舞踏というある種一気に観念からさかのぼる身体ではなく、方法の集積にこだわったコンテンポラリーダンスの痕跡があり、そのなかでシェイクスピアを断片化し、物語性はほとんど消失し、日常を抱えこむ背景とがあるだけだ。
    舞台をインストラクティブな場として「教室」という設定も良かったと思うが、たとえばシェイクスピアを語り、結局、普遍性に自家撞着する存在がシェイクスピアと少女の間に存在していたりすると、より多層的な構造を表すことが出来たのでは。教科書(シェイクスピア、食材)=台本(レシピ)=教師あるいは白い模造紙(お皿)=黒板=お弁当という図式はわかりやすくてよかったですが、プロフィールにあるような子供を対象にしたアプローチではない、劇場での作品としては、もう一つのレイヤーが具体的に存在してもよかったかもしれません。シェイクスピアが素材になる必然をもう少しつっこんでも面白いと思います。そういう存在がいるとしたらがいるとしたら、あのお父さんをやってた方が演じてもよかったかも。そうするとワーカホリックな父の意味、つまりダンス的に表現された経済活動の異化や、文学的物語性の普遍に対する断片的引用(愛情をもって、料理するために野菜をきざむように、シェイクスピアの物語を断片化する)の意味が、二重に映し出されるのではないでしょうか。古典であるシェイクスピアの金言をつかう必然がもうすこしはっきりすれば少女がこうしてひとつ成長しました、という話以上の社会性も出てくるように思います。ただ、時間的な制限もあるので難しいかもしれませんが、こうして状況や場に応じていろいろ発展できそうな「開かれた」作品だと思いました。
     等身大ではなく、もともと「こども」という視線(前作は子供関連のイベントに出品)があったからこそ、いたいたしい自意識に囚われない客観的な作劇術が可能になったのかもしれません。あと、野菜たちは映画の「アンダーグランド」を思い出しました。


    エリザベス

     舞台上では、作り手の意図とは関係なく、言語が社会化される。それはたとえば直接的な意味でドイツのカバレットの寸劇やコントを想像させるまでもなく、社会の不条理性、実際、告発や警鐘、あるいはパロディやデフォルメといった多様な形をとる。またいま、マスメディアの言語に対して、このような小劇場空間が果たす役割の可能性や不可能性についてどれだけのことが考えれれるのだろうか。なぜならこの劇団が素材にしたソーシャルネットワーク上につぶやかれた意識の断片が、社会の欲望の表象空間といえるのですから。そうはいっても相変わらずたとえばこのあたり、新宿の雑居ビルの部屋も、透明人間をひきだすまでもなく、おっかない空間なのです。そういう意味で舞台上の状況設定としては弱いかな、と思いました。あらためてそんな表象を舞台にあげるためには、ソーシャルネットワークのツール、小道具が携帯電話やネットではなく、石器とか、太鼓とか、そんなものでもよかったかも。

     そういえば以前モスクワに滞在していたとき、地下鉄テロの直後に、地下鉄のコンコースにキリスト教の図像画のなかに現在のコミュニケーションツールのアイコンがちりばめられていて、それらがテロによる麻痺状態を示唆するような広告があって話題になっていたので、不謹慎にもわざわざ見に行ったことを思い出しました。

     戯曲作者は自らの表現として言語と物語を文字メディアで生産するが、演出を受け、舞台上で体現する役者の存在意義は何なのかということも考えさせられた。たとえば、この戯曲のなかの役を演じるにあたって創造的に取り組める作業や意義って具体的に何があるのか、と。その作業がないとしたら、作品の深みに限界があるように感じます。逆に言うと役者があまりにも抵抗なく戯曲の言葉をひきうけているような印象がありました。
    戯曲の作者や演出家はおそらく、この種の社会性を意識的に体現することに慣れているようにおもわれるので、試みに逆にパロディや社会性をあえて徹底的にうけ負わない作劇法を試してはどうかともおもいました。また逆に、舞台美術や照明効果があったほうがもっとよい、と思わせなかった点は、戯曲や演出の力があるからだと、思います。そしてこういう作品(小品)やコントがもう少しお手軽に、例を挙げたカバレットコントのように、もっと小劇場やカフェで行われているゲリラ的状況があれば面白いなぁ、と思いました。でも、そういうお手軽さは、テレビやインターネットやゲームやレンタルショップにあるわけで、それに拮抗し存在意義を求めるのはやはり困難でしょうか、、。

     プロフィールにあるように「ふざけた社会派」を自称するには生真面目すぎるとおもいました。戯曲を格上の問題かもしれませんがテーマや気の利いた批評意識やユーモアがなけれ、というような無意識の強迫観念が存在しているようにも思いました。舞台の上の言語活動とは、死んだ言葉を蘇生させ、消失して葬るセレモニーのようにも思います。背景に死というものが意識されているならば、もっともっとふざけていてもよい気がしました。


    印象

     他の団体もそうですが、みえないはずのものがみえ、それらが何かを啓示する、というパタ−ンがあります。古今東西の亡霊譚、この団体の天使や「タマゴプリン」の野菜、「エリザベス」の透明人間もそうだが、しかし舞台の観客にとって、それらに対してあらためてにファンタジックな驚きがあるわけではない。ですからもっと慎重に深くそういう存在を扱ってほしいとおもいました。そういった自覚があるからか、ここでは、あえて天使らしくない天使があらわれ、しかし、天使だから人間がかかえる日常の生のコンテクストとは無関係な振るまいをするので、だんだん登場人物の背景が明るみになり、観客が感情移入し物語に入ってくる頃には、その無垢な存在は観客をいらだたせ、舞台の上でももはや「不要」のものになる。

     しかし、どうして擬人化された天使やど根性野菜や透明人間を登場させ、その出現に救済される、ということを描こうとするのか。なにかそういった存在を出現させないと「救済」されない日常があるということなのか?そうならばその設定にもう少し強度が必要に思いました。ここでやはりベンヤミンが示唆したクレーの絵、とても人とは思えない「新しい天使」像を思わずにいられない。救済すべきは生や未来ではなく、過去と死、メメントモリである。現在、いかほどに未来やディスコミニュケーションに怯える日常を描く必要があるのだろう、と疑問に思いました。

    作劇法としてはたとえば幅広い年齢層の人たちが、座談会やインタビューでもしているほうがリアルだったり、突然役者が自分自身の親子関係のリアルな話をしだすとか、たとえばそんな挿入や映像があったり。そんな舞台空間も想像します。しかしあらためてその時、「天使」ってどんな存在なんだろう?と。天使って台詞なくてもよいくらいかな、と。たとえば、天使たちを無言劇やダンスにして、ドキュメント映像と、リアルな会話劇芝居の3つのレイヤーを組み合わせ構成しながら、とか、。そういう構造的な工夫に現代のファンタジーとしての驚きがあるのでは。天使がほぼ役割を終え、後半はほとんど人情劇で、ホロッとしてしまうこともありました(役がみんなリアリティがあって良かったです)が、もう少し、いや最後までファンタジーの空間に迷い込みたかった思いがしました。


    ing進行形

    「MAY」以外の他劇団が、フィクションや日常性を演じる中で、この団体は史実を素材にして、歴史を現在と相対化させる試みをしていた。こういう叙事的なテクストの言語を語る方法として、種様式化された方法やシステムを使うことは有効に思われ、この団体も、ダンスも含め、発話法も方法化を試みていた。また、このような叙事的台本においては、台詞劇というよりは、詩劇のようななテクストにしたり、たとえば朗読や歌を交えて広い意味での音楽劇の形にすると効果的かと思いました。実際ポールクローデルとオネゲルの「火刑台のジャンヌダルク」はオラトリオという形をとっています。そして様々な方法自体も未完成で、方法の適用も適材適所とはいいがたく感じました。ちょっと無理矢理方法化しているように感じてしまいました。こういう方法化はある程度の形になるまで、観客にエゴイスティックさを感じさせてしまうので、今後、逆に、作り手が自らのエゴイスティックな時間というものにどれだけ耐えられるだろうか?と思いました。時間のかかる作業だと思います。私個人的には、このタイプの舞台に音楽や演出的立場で関わらせてもらうことが比較的多いので、それ故に厳しく観てしまいました。
     たとえば7、5調のラップのような叙唄と、その後ろに流れるリズムとの関係、言語と音韻、あるいは踊りとの関係、普通の語りとの差異。一定のビートのうえでは必ず7、5調などの音楽的な韻律ははまるので、それならばそれによって流されてしまう言葉の意味をどう捉えるか、それを補い新しい意味を生成する振り付けとはどんなものか、それらのことがしっかりと整理され、その根拠、必然がどこにあるのか、方法論が固定化される前に、様々な丁寧な実験や、外側の価値観や知性の導入(たとえばドラマトゥルク的な役割)も必要かな、と思いました。いっそ全編音楽を流してしまうとか。状況説明や背景の補強に音楽を使うのではなく、流れてくる音楽に拮抗するように形式をつくってゆくとか。


    MAY

     言葉を覚えはじめた子供の頃、二次大戦後、済州島四・三事件を逃れ密航し命からがら海を渡り日本に来たお母さんの言語形成過程に注目してみました。特に、病気をして認知症的な症状が併発して現れ始めたとき、母が,娘のことばとなってしまった日本語を反復していたところに注目しました。死を前にした最後の言語形成。

     済州島から海を渡り日本での生活、そして日本語を習得し、娘に、南北という理不尽な二者択一どちらのコミュニティをも施さず、日本語という言語で教育し、死を前にして、自らの母語ではない言葉を、自らの娘の言葉?(日本語)を反芻する。そして直後の母の死のあとのシーンで娘が旅した済州島の海での、響き合う海を隔てた海女さんたちの、わたしとっては意味が分からない外国語に、わたしは不思議なことに安堵のような気持ちと、感情の在処がわからない涙がこぼれてしまった。これはもちろんマダン劇として語られる物語と歴史的真実や背景を受けてのもでもあるだけでなく、言語を奪われたり、獲得されたり、教育されたり、教育したり、コミュニケーションとしての「言語」の脆弱さと、それでもなお言葉や「意味」を信じずには生きることが出来ない人間、あるいは「わたし」という存在の、生の営み、生きることの根拠を認識させられてしまったからでしょうか。そして、こうして言葉に操り操られているからこそ、たくましき女性による意味から逃れた異国の言葉の響きにこそ、包まれるような安堵を感じてしまったのかもしれない。
    マダン劇の形式は、ブレヒトの教育劇との親和性が指摘され、私自身もブレヒトの教育劇に「わたし」ではなく「わたしたち」の「場」つまり世界をみいだそうとしていました。その「場」とは劇場なのか、マダン、つまり「広場」なのか、しかしそこにある歌や踊りを夢想しつつ、また、現在の東京でそれは祝祭なのかそうではないのか。マダン劇や教育劇は、目的や効果がはっきりとしているものだから、作劇法としてはどこに焦点を合わせて観客との関係を築いてゆくか、という問題があります。ですから焦点の定め方によって作劇法が異なってくる。たとえば、韓国でも大阪でもなく現在の東京を焦点にした場合、どんな作劇法があるのだろうか、など。また、そこを焦点に定めた場合に、こぼれてしまう歴史や現在の問題の本質は何であろう。問題を重層的に複雑に提起するのか、シンプルに祝祭空間広場としてひとまず完結させるのか、そういうことを常に、方法に対し疑いを持ちながら繊細に作劇してゆかなければならないだろうと思います。

     そしてその繊細さに関して言えば、おそらくいろいろな場での経験も豊富にあるのだとおもいますが、それ故に、若干、広場の祝祭を司る司祭としての俳優、狂言まわしの存在が、即興的対応が手慣れすぎている、というか強すぎる気がしました。たとえば観客のレスポンスによって、物語が変容してしまうくらいのドキュメント性があってもよいのかな、と思いました。もう少し繊細でフラジャイルな観客との関係性を築いてもよいと思いました。これは弁証法というか西洋的な発想かもしれませんが、ブレヒトなら裁き(裁判)の場として、ギリシア悲劇ならダイアログの場として。観客を舞台にあげるのなら、たとえばもっとそのこと自体に影響されるようなつくりやを試みてもよいのではないでしょうか?いわば客席こそ舞台の空間であり、感情というよりは身体の変容を感じさせるということが舞台空間だと思います。まず舞台上の役者の身体が変わらなければならない。まさに、ひとりの人間が韓国語を語る身体と、日本語を語る身体は違うはずですし、ましてその背景には、現代の私たちが気づかなかったり、忘れ去ってしまったり、自らの手で、ないことにしてしまっている身体があるはずです。しかし現在の私たちもまた、「ことば」や「からだ」を喪失しかけた生を営んでいることに自覚的ではないのですから。
     しかしそういう喪失感や恐怖に、各劇団はみな自覚的にテーマにしていたと思います。天使や、ど根性野菜、シェイクスピアのことば、ジャンヌダルク、透明人間、そして民族、血。だからこそ、それらを舞台という俎板に現実化せる強度あるドラマツルギーが要求されるのだと思います(その点で、ど根性野菜とシェイクスピアを複合的に描き、工夫した「タマゴプリン」の作劇法が優れていたと思います)。フェスティバルの枠はひと枠2劇団の公演ですから、MAYと他劇団がそれぞれ並んだとき、なにかいろいろな発見があるとおもいます。わたし自身は残念ながらMAYは単独でみさせていただいたのですが、おそらく、特に作り手なら、「好き嫌い」などではなく、自らの創作の根拠が揺さぶられるはずではないでしょうか?わたしも一人の音楽家、創作家として、たとえばわたしなら、MAYの舞台の後でなにができるだろうか、あの浜辺の女たちの韓国語のシーンや、はじめて覚えた言葉、「オモニ」という文字を砂に書いて波に消えたシーンで、もし音楽を奏でるのなら、それはどんな音だろう、と。そんな不可能ともいえることに、あえて創作して生きる根拠を感じてしまうのです。「失われた物語」を探すにしろ、「物語なんていらないよ」とパンキッシュにいうにせよ。


    音楽家の立場から

     今回の音楽は、MAYをのぞき、ほとんど生演奏ではありませんでしたが、音楽、効果音の用いられ方や音響について感じたことです。演劇やダンスの公演で聴くことができる音楽も、ずいぶんと多様化したものだと思います。しかしその使われ方が、ほとんどBGM、つまり状況説明や、雰囲気づくりのために用いられていたので残念でした。それだけではなく、もう少し多義的で重層的な音楽との関わりを(そしてこの多義的な重層性をいかに整理してメッセージするかが、ドラマツルギーや演出的役割だとおもいます)みたかったです。「効果」という視点で考えても、音量も大きすぎ、スピーカーの問題もあるかと思いますが音響的に「high」が強すぎるのでは、と思いました。たとえば、大音量で歌謡曲使ったり、テント芝居などでの、ある種の猥雑感をだすための効果だったり、それなりの演出意図があると思うのですが、あまりそこまでの意図は感じられませんでした。これは音楽に限ったことではありませんが、全体にダイナミックレンジを「大」のほうにして、観客の意識をひきつける「効果」はあらわされていましたが、「小」の表現は少なかったように思います。せっかく小さな劇場なのにもったいない感じがしました

     声の重なりや、音、声色、大小、そういうアンサンブル的な感覚が舞台上にもっと繊細に展開させられることを期待します。そういうことに繊細にならないと、劇全体が言葉や戯曲の主張の空間になってしまうと思いました。
    | 劇評 | 14:49 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









    http://alices-review.tinyalice.net/trackback/1084430