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☆Alice's Review☆

  タイニイアリスで上演された作品の劇評たち ―Crazy Tea Party―
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反「靴(シンバル)」__西村博子
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      高いところから身を投げて死のうとするとき、なぜか靴を揃えてから飛び込むけれど、韓国の人も同じことするのだとは今度初めて知った。朴章烈(Park Jang-Ryul)作・演出「靴」である。演劇として面白く見せるいろんな手を繰り出しながら、自身の生き方と死を真剣に凝視(みつ)めた舞台に出会えて、嬉しかった。
     「靴」は、霧か工場の煙突からの煙か、うす暗く立ち籠める架空の島が舞台。終わりのほうで作者の一分身と思われる男が詩人ギヒョンドの詩を引きながらこの村で俺は生まれたと言っていたから、作者のほんとの故郷かも知れないし、あるいは韓国のことかも知れないし、島国日本のことと受け取っても差し支えないようである。
     全編、脳裏に浮かぶ犁憶瓠3謄掘璽鵑話琶凖で、時も所も瞬時に移動し、ときに複数の出来事が同時に、あるいは連続的に舞台に出現する。ばかりでなく、私たちの記憶も、出来事はくっきり覚えていても相手の顔かたちがぼんやりしていたり、他と混同していたりすることがよくあるように、主人公ミンギュの母はミンギュの記憶の中で、恋人ジェシカの母として現れたり、ほかの子の母でもあったりしたし、今や投身自殺しようとしたミンギュを背後から抱きとめたウンエ(KIM Ji-Eun)も、父なし子を妊娠して家を出て行かなければならなくなったミンギュの叔母になったり、ミンギュとベッドを共にする街の女になったり、騙した男に公衆電話から怒りをぶつける女であったり……。終始同じ役だったのはミンギュ(KIM Jung-Ouk)とフィリピンから来たジェシカ(KWON Ki-Dae)の二人だけだった。ふつうの、ひとり一役、時とともに進行していく会話劇を見馴れたひとには、勝手が違ったかも知れない。
     が、これは演劇の可能性をまた一つ大きく広げた、と言っていいと思う。基本的には会話劇でありながら、主題歌♪素足は太陽に向かう」を初め、歌や音楽がふんだんに使われていたのも、日本ではなかなかないことであった。最近日本でも、ただ日常をそのまま描くのでなく、記憶や想像など脳裏に浮かぶことを描こうとする若い世代の実験劇がいくつも出てきている。それが私たちの紛れもない現実だから、にちがいない。日韓の創造競争はこれから、いよいよ楽しみとなってきた。


     「靴」の作者は、時がどんなに前後しようと各シーンがどんなに錯綜しようと、いっさい説明を加えない。すべて観るものに委かすという描き方なので、私も安心して私の勝手な受け取りを言うと、
    いちばん終りの、亡くなった人たちが、自殺した人々の海辺に流れ着いた靴をそれぞれ元の持ち主に送り返そうと靴箱に詰めているシーン。そのちょっと前に、事業に失敗し断崖から身を投げようとしたミンギュが、思い返して靴の紐を結び直しながら、ふと遠くに目をやる――この一瞬にミンギュの脳裏に駆け巡ったもの。それがこの舞台、だった。
     母ちゃんのおっぱいに甘えた幼いころ。三輪車を買ってもらったとき、友達とゴム飛びしたとき、自転車や車が欲しくなったとき、国立大学の受験に失敗したとき、労働運動に携わり当局に逮捕されて以来行方不明となった父親と母との最後の別れ、父なし子を妊娠した叔母が家を出ていくと告げた日、初めてパブでジェシカに出会ったとき、ジェシカを亡くなった母と最後に行った海辺へ連れて行ったとき、そのジェシカとの初めてのデートにどんな食事を一緒にしたか、初めて贈ったプレゼントは何だったか忘れてしまっていたミュンギュが、それをジェシカに咎められたとき、ミンギュの靴紐製造工場にジェシカが火を放ったとき……。
     舞台の時を、もしふつうの劇みたいに並べ変えてみると、ほぼこんなふうな進行だったのではないだろうか。貧しい家に生まれ、何とかして金を得たい、母を幸せにしたいと望み、しかし結局それは叶わず、だからといって父親のように社会を変えようなどとは決してせず、工場を失って路上生活するしかなくなり、ついに身を投げようとした――これが青年ミンギュ、その半生であった。
     ミンギュはグレイのスーツもカッコよく似合う好青年だが、だからといって決して、貧しい者として、社会に受け入れられなかった者として、あるいは愛を喪ったものとして同情的に、ただ肯定的に描かれていたわけではない。ジェシカを愛すると口では言い、ジェシカ〜ァと叫び求めたりもしたけれど、他の女性と寝ることに抵抗あるわけではないし、自分は亡くなった母親に逢いたくてしょうがないくせに、ジェシカが彼女の母に会いたがるとせいぜい飛行機代を放り出してやるだけ。自分を履き捨ての靴みたいにしか扱わない社会にもちろん不満はあるが、だからといって父親のように生きるわけでないことは上に言ったとおり。パブやカラオケで飲んだり踊ったりの乱痴気騒ぎや女を物色したりもする。現代の私たちそっくりだ。
     家族に仕送りするためフィリピンから韓国へと出稼ぎに来ていたジェシカは、せっかくミンギュに出会いながら、その工場に火を放ち自ら命を絶つ。そのときのセリフの一つに犹笋外国人なのがそんなに恥ずかしかった?甅爐△覆燭楼貪戮盪笋鮨佑望匆陲靴討れたことがない瓩箸いΔ里あった。自分は他から人間として扱われたいくせに他には社会の常識どおりの扱いをしてしまう――こうしたミンギュもまたまるで私たちであった。


     合間あいまに、かなりの比重で女子高生(KIM Jin-Young)と男子校生(WON Jong-Chl)のシーンが挟まれていた。観た人の何人かからこの高校生たちが判らないとか、二人はなぜ自殺したのだろうといった感想を聞いた。私も答えられなかった。
     が、ラクの日。女子高生のバイト先のパブ、歌に合わせて踊りながら客たちの前で逆さまに大股広げ腰をくねらせ、エロスを振り撒く女子高生。その誘惑的なこと! と、突然男子高生が刃物を持って客の一人に飛びかかかり、腹を刺す。それを見た瞬間、私の想像は秋葉原や近くはグァムか、頻発する、相手は誰だってかまわない無差別殺人の、おそらく犯人自身にも不可解だった?にちがいない心の内へと飛んだ。何かといえば「三千世界に火を放ち」「ワッ、死にたい!」と衝動的に飛び上がっていた若いころの私自身も思い出した。前半は「八百屋お七」と、吉原の遊女たちも歌ったと聞く都々逸♪三千世界の烏を殺し、主(ぬし)と添い寝がしてみたい」が頭の中で勝手にドッキングしていたのだ。

    前後する二人の時も並べ変えてみると、おそらく二人はゴム紐遊びもいっしょにした幼馴染み。さすがオモニの国だけあっていつも女子高生のほうが強く男子高生は振り廻されぱっなしなのだが、ある星空の夜、二人は、お互いに相手を理解はできないけどなぜか好きと感じ合って、結ばれる。しかしパブ。ミンギュも含めた客たちと踊る女子高生を見るや、男子高生は飛びかかって客を刺し、そうして二人は断崖から飛び降りて死んだのだった。
      刃物沙汰のすぐあと女子学生が、血で生温かな男子高生の手に触れたとき愛を感じたといった意味のことを言っていたから、作者は、こんなことでしか愛を確かめることのできない現代の哀しさを描きたかったのかも知れない。確かに若い二人の愛は純粋だった。生き方を問わぬ愛は衝動的であり、儚くもろいけれども。

     しかし、ミンギュの半生と二人の高校生の死までが交互に描かれるのを見ていくうちに、この作品で作者が描いたのは一見“愛”に見えて、実はそうではないのではないかと思えてきた瓮潺鵐ュの主筋がジェシカへの愛を描くかに見えて、実はそれはほとんど描かれていなかったからである。男子高校生も、女子高生の言うがままに女子高生を空中回転させたり自分の頬ッペた思いっきり引っぱたき続けたり、渡された薬を飲んで海へ身を投げたり、いわゆる尻に敷かれ放しだったからである。これが“愛”? 高校生たちが判らないという感想は無理ないものだった。
     ミンギュ青年が靴を揃えて投身自殺しようとしたとき、彼は海に向かって「母さん、ごめん。僕はいい子じゃなかった」と言った。ジェシカに謝ったのではなかった。男子高生も死ぬ前、自分の事件のために両親が示談金を支払い、その後離婚したと呟いた。女子高生への愛については何も言わなかった。
     男子校生よりもっと悪いことしながら全く罰せられず、どころかリッチに、のうのうと暮らしていける階層、社会的地位の人々が数え切れないほど居る現代、男子高生と女子高生の投身自殺はそれとは正反対、自ら下した罰であり、その点では誠実、純情だったとさえ言えよう。
    だから、実はこの「靴」の主題。「熱く激烈な人生」(サブタイトル)そのものを描くことにはなく、激烈な競争社会に対する「反」(劇団名)を描くことにもなく、男女の愛を描こうとしたのでもなくて、ミンギュ、男子高生それぞれ最後の言葉から察せられるとおり、たとえ仕方なくであるにしろあるがままの社会を受け入れながら、しかしその社会に敗れ親の愛に報えなかったものからの、親への愛にあった、と言わなければならない。私も親不幸、亡くなった母親に謝るしかない。

     この女子高生と男子高生が、作者自身や身近な友人の高校生活だったか、それとも、ミンギュの半生に大学受験前の高校生時代は描かれていなかったので、ミンギュの可能態として挿入されていたのか、それは知らない。作者は説明いっさい抜きの知らん顔、観る人の受け取るがままにまかせているからだ。
     もうひとつ、作者が知らん顔していることを証する好例がひとつある。あるときは母親のおっぱいしゃぶる幼子であり、あるときは凧揚げする少年であり、あるときは赤い鉢巻締めた労働運動の闘士、あるときは妻に永(なが)の訣れを告げる夫であり、あるときはパブのカメラマンであったりもした男(JEOUNG Seong-Ho)、である。
     男は、少年時代の凧揚げのシーンが済むと、そのまますぐ体を観客に向け壁に向け、あるいは立ち位置をあちこち変えながら、しきりに空中に字を書いていた。え?と見回すと、舞台の袖や壁のあちこちに文字が白く映っていた。ほとんど誰も観客は気づかなかったのではないだろうか。自分のこれまでの、おそらく熱く激烈だった人生を、そしてこの舞台を、想い浮かべながら筆を走らせていた朴章烈その人だった。

     ジェシカが工場に石油を振りまいて火をつけようとしたとき、そこにいくつもの素足が現れ、素敵なダンスを踊ったのだったが、そのダンスのなんと面白かったこと! 白い足の裏たちのなんと綺麗だったこと! 最後の、亡くなった人たちが靴を荷造りしていたシーンでもみんな素足だったから、ひとは死んで初めて靴を脱ぎ、素足になれるのだと知った。なるほど私たちが身を投げる前に必ず靴を揃えるのも素足になるためだったのだ。
     私たちはほんとうは素足で、大地にしっかり足をつけて生きていきたい。けれども、この社会で生きていこうとするかぎり、靴は履かなければならない。履き捨てにされるしかなくても――「靴」はそういう舞台であった。
     最後に、舞台に積み上げられた靴箱、年々その数が増えてくるという箱の山を突き破って、あの、自殺を思い立ったミンギュ、ふっと過去を振り返り、いったんは靴紐を締め直して社会に戻った彼が、飛びこんでくる。そしてひとこと、「勝てない」と言って亡くなった人々のなかに加わろうとした。あのとき思い直してもう一度社会に戻ったけれども、やっぱり勝てなかった、また負けてしまったというわけだ。
     ミンギュが亡くなった人々のなかに加わろうとすると、亡くなった人々は総出で彼を押し戻そうとし、なかでも夫の失踪後、首を吊って命を絶った母親が両手を広げ、「戻りなさい」ときっぱり言う。
     戻って果たして生きていけるだろうか? ミンギュが、来た方角を振り返り、じっと凝視(みつめ)るところで劇は終わった。
     舞台に目をやると、ふつうなら黒幕のはずのところがすべて黒い、長い靴紐だった。霧か工場の煤煙か舞台の背後が透けていたのもそのせいだった。私たちはこの、すっかり靴紐で取り巻かれている社会で生きていけるだろうか。いつか♪素足は太陽に向かう」ことができるだろうか。靴紐を解くか結ぶか、まず足元を、靴を、私たちもじっとみつめなければならない。

     書き込めなかったことを、最後にひとこと。
     幕開いてしばらく、ミンギュの幼時が描かれたあとのことだが、オンマ(=母ちゃん。MOON Chang-Oan)が空を見上げて、ヒコーキーと叫ぶシーンがある。大きくなって立派な社会人になったら飛行機に乗って世界のどこへでも行けるよと子供たちに希望を与えたすぐあとのことなのだが、その声の素晴らしかったこと! 息の続く長さは映画「タイタニック」の、あの主題歌♪My Heart will go on♪とどちらが?というほどで、ごく普通の会話劇かと始まった幕開きが一挙に記憶の不思議舞台へと突入していったのだった。
     もうひとつ良かったのは字幕。TV映画みたいに、今話している俳優と同時にセリフが目に入るようにと、舞台の背後、黒い靴紐たちに映されていた。もちろん話し手が誰かはTV映画と同様、画面を見ていればわかるのだからいちいちの表記なく、「、」や「。」も削除、俳優の息に任されていた。
     これまで、とくに大きな舞台では、字幕を読むために舞台袖に視線を移し舞台を見ていられないことが多かったが、今回の工夫、もっともっと他の舞台でも採られるようになったらいいのに、と願った。この上の欲を言えば字の大きさ、少なくとも2倍あったらなお申し分なかったのになあ(笑)、である。  (2013.03.24所見)
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