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☆Alice's Review☆

  タイニイアリスで上演された作品の劇評たち ―Crazy Tea Party―
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モズ企画 韓国新人劇作家シリーズ第二弾__森 薫
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     韓国新人劇作家シリーズ第2弾として「ピクニック」「罠」「変身」が同日連続上演された。

     ひたむきに自分をみつめる視線、真摯(しんし)ともいうべき作と、自分の生きている社会をコミカルに眺める2作と、取り合わせもなかなか良かったし、同時にそれらを演出する3人の、技能も含めて自身や社会を観る目の競い合いとなっていて、興味深かった。

     終演後毎回アフタートークがあり、来日した「ピクニック」の作者がその作品を書くに至った想いを率直に話してくれたし、韓日の演出家たちがそれぞれ作品をどう理解したか質問し合いもあったので、観たものは韓国と日本の相違や類似を考えたり、自分の舞台から受け取ったものと照らし合わせたりできてよかった。


     最初に見たキム・ヒョンジュン作/金世一訳・演出「ピクニック」は、母(久保庭尚子)とその介護をする娘(生井みずき)との激しい日々の葛藤を描いたもの。あいだに、娘が母親に甘える幼児だったころや、二人とも若くて仲良かったころの過去も少し挿入されてはいたが、全編を貫いていたのは厳しい母とそれを咎め、反抗する娘との葛藤、言い争いであった。

     二人の争いは食事の味つけなど些細な日常も無論あったけれども、もっとも強く響いてきたのは、娘が我が子の口にトイレットペーパーを押しこんで窒息させたとか、母親が崖から孫が落ちるがまま放っておいた、娘もそれを止めようとしなかったとか、誰のせいで娘の産んだ赤ちゃんが死んだかの咎め合いであった。時折り舞台下手に操り人形として現れた無言の赤ちゃんが一度床に飛び降りたことがあったので(人形操作:前川衛)、おそらく死因はこれだったのだろう。

     だが、作品の狙いは赤ちゃんの死因をはっきりさせようとするところにはなかった、と思う。誰のせいで死んだか、どうやって死んだか、母娘の言い争いはここに収斂(しゅうれん)されていったわけではないからだ。

     あ、そうか!と思ったのはアフタートークのときだった。タイトルの「ピクニック」という言葉について作、訳・演出の二人がこもごも、日本では楽しいというイメージしかないが、韓国語には遠いところへ行くという意味がある、死ぬことさえ連想させるようなと話してくれたからだった。

     作者は、作品を書くとき最も心を砕くのは言葉だと言っていたし、訳した演出も、この作品に溢れる互いの非難、罵り合いは実に多種多様、沢山あって、馬鹿野郎ぐらいしかない日本語に訳すのに非常に苦心したとも言った。もちろん赤ちゃんは遠出したとき亡くなったのだからタイトルどおりだけれども、別に赤ちゃん自身、遠くへ行きたいとか死にたいとか思っていたわけではないだろう。この現実に居たくない、いっそ遠くへ……生(なま)なセリフでは決して言わないが、ここに母娘の想いがあったに違いない。家の中でピクニックしていたのは母と娘だったのだ。この点に演出が少し注意してくれるとよかった。

     舞台はまるで言い争う母娘の関係を示唆するような激しい雷鳴から始まり、その争いは最後まで続き、解決も和解も、ドラマで言う止揚もなかった。幕閉じるとき雷鳴はなく、若いころの母娘がほほ笑み合って終わった。が、このあとも二人の争いは日々、永遠に続いていくに違いないのだ。

     下手な演出だったら会話に終始して退屈しかねないこの作品を、母親を車椅子に乗せて舞台を縦横に動き廻らせたり、赤ちゃんを操り人形にして母娘二人の闘いを妨げさせなかったり、他に少々首をひねるシーンがないでもなかったが、とにかく観客を飽きさせない工夫いっぱいの巧い演出だった。

     私の母も同じ、厳しかったというアンケートが結構あったと仄聞した。公演後、直接そう言う言葉を聞く機会もあった。甘い母親と我儘ばかりしてきた私には知らない世界だが、作者渾身のこの作品、同じような経験をした人たちには痛切な舞台であったに違いない。

     慾を言えば、どうやったら同じ経験をした人にだけでなく、そうでない人間にも思いあたるものになるか、である。親子殺傷、わが子虐待その他……毎日のように報道される事件のその底辺には、何倍も事件までには至らない葛藤があるはず。もし「ピクニック」をあんなに裕福そうな家でなくしてみたらどうだったろうなどと、いい知恵は浮かばなかったが、いろいろ考えさせられた。

    難しい課題ではあるけれども、作者の次の挑戦が期待される。




     ホ・ジンウォン作/金世一訳/鈴木アツト演出「罠」は、買ったカメラを取り替えに来た客、一日立ちっぱなしで早く帰りたいばかりの女店員(保亜美)を初め、店長(広田豹)、警官(加藤亮佑)、みんな巧くて安定していた。たったひとつの商品台を素早くあちこち動かしたり角度を変えたり俳優たちに一斉に台から顔を突き出させたり、これまた下手すれば日常会話のセリフ劇になりかねなかった作品を面白おかしく、最後まで飽きさせずに見せた演出もなかなかの腕前だった。

     が、正直言うと、黒色のカメラを白色のに取り換えてもらって一旦帰りかけた客が、換えてもらったカメラがほんとに白いかどうか確かめたいと戻ってきてから、ここまでは明快に分かったのだがそのあとからが、客と店長たちとの揉み合い、大立ち回りを最後まで面白可笑しく見ていたくせに分からなかった。店長が客の、とくに問題とも思えない要求になぜさっさと応じないのか、警官はこの場にいったい何しに来たのか――そういうことが私にはよく呑み込めなかったからである。

     客の要求を大したことでもないのにと思ってしまった私が(今の市民社会に)侵(おか)されているのかも知れない。もしそれにハッと気づかせてくれたら言うことなしだったのに、と思った。

     アフタートークで演出は、テーマは?の司会の問いに、いま大流行りのfacebookや“いいね”クリックの例を挙げて“コミュニケーションの無さ……ですね”と答えていた。私もそれに異論はない。とくに客を演じた本家徳久の決して裕福とは見えない彼が必死に喰らいつく姿にそれは納得できた。取り替えてくれと持ってきたカメラがあんなに大きな箱に入った高価そうなのでなく、せいぜいスマホぐらいのサイズだったらもっと良かったのにとは思ったけれども、である。

     そして再びけれどもだが、演出のこの答えを聞いて、あの店長も女店員も警官もコミュニケーションに飢えていたの?と聞きたくなった。が、その時はひとまず遠慮することにした。

     違う回のアフタートークでだったが、演出同士の、あるいは観客との率直な応答を聞いているうちに、私もついつい演出に“罠”って誰が仕掛けたんですかと質問してしまった。司会が、これは誰が罠を仕掛けたかでなく、みんな罠にかかったものたちですねと答えてくれた。その言葉を引き取るように演出も“現代の資本主義社会……かな?”と答えてくれた。“……”は自分の言葉が間違ってないよねの自己点検、演出いつもの癖なので、……以下は気にしなくていい。

     韓国も安部のMIXならぬ槿恵(くね)MIXか。罠は現代の、経済一辺倒の社会であり、主題はそこに生きなければならない人間同士のディス・コミュニケーション――おそらくその通りなのだろう。

     戯曲を読まなければ確としたことは言えないけれど、発想は文句なく素敵だったのに必ずしも意図どおりに書けていなかったのかも?――などとも想像した。が、この舞台、笑いもスピードも決して落とさず、けれど観客から質問なんか出ないほどに演出の把握が実現されていたら……、と惜しかった。




     イ・シウォン作/李知映訳/荒川貴代演出の「変身」は、3作のうちでも最も舞台化の難しい作品である。これまでにカフカの「変身」の舞台をいくつか見たことがあるけれど、いちども自分が虫になるような怖さを感じたことがない。小説を読んだときのほうがずっとずっと体が中からむずむずした。安部公房の「鞄」や「棒になった男」でも同様だ。戯曲を読んだ時のほうが遥かに身体に響く。舞台で文字通り変身するのは難しい 。

     今回の「変身」で言えば、人がクマモンのマグカップになったり、石になったりしたのだが、ただ持ってきた箱からマグカップが取り出されたり下手から石がごろごろっと投げ出されてきたりしただけだった。変身が目撃できたわけではない。冒頭、市の対策本部の職員たち(功刀達哉、鈴木みちの)が、町のあちこちで人がモノに変身していると状況報告していたし、終わりの方では骸骨を初め、人間だったと言うモノがいっぱい運び込まれてきてうず高く積まれたりもしたので、いちおう頭理解はしたのだけれど、舞台でみるみる人が何かに変わるのを実感できたわけではないので、まあ変身したことにしておこうという程度だった。

     休憩時間にどうだった?と聞いてくれる人がいたので、もし職員たちが人間だけど人間ではないと演じたらどうだったかしらと答えはしたけれど、そしてそれなら、石になった男が家に帰ったとき冷たくあしらう妻や娘たちも人間じゃなかったはずとも後で思ったのだけれど、それらはあくまで主題の補足でしかない。もしも題名通り舞台での変身が見られたら! 演出はこれまで誰もできなかったことに成功したことになるだろう※。変身は難しい。

     アフタートークのとき演出が、言葉は正確に覚えていないが、辛い毎日にひととき、人はモノに変身して安らぎを得ると言ったので、エッと驚いた。初め、路傍の石になっていた間に妻と娘が居なくなった、探してくれと職員に頼みこんでいた男(近童弐吉)、この作品を一筋貫くいわば主役で、作中、変身したのもこの男がただ一人だったのだが、その彼が終幕、机の蔭に身を沈め、机の上にちっちゃなピアノがポツンとあったとき、チラと違和感を覚えたのだが、この演出の言葉でなぜ可愛いメロディ奏(かな)でそうなピアノに変身したのか理解できた気がした。従来の、カフカ以来の変身に対する感性、恐れを180度ひっくり返したのは、これまで誰も思いつかない初めてのことだったのではないだろうか。

     マグカップを割ってしまった女、男、街の人、石男の妻を体中で演じ、とくに最初の出で大いに客席を沸かせ、舞台の基調を作った坂本容志枝。ニュースレポーター、女子高生、囚人、街の人、石男の娘を演じ、何の役のときだったか素晴らしいダンスを踊った李潤姫。前に挙げた職員二人もそれぞれ4役,5役を演じたこの作品、タイトルの「変身」は人からモノへではなく、どうも役から役への意味であったようだ(笑)。

     私はこれから、人に踏みつけられる石になるのを怖れるべきだろうか。それとも可愛いピアノになって安らぎを得たいと願うべきなのだろうか。 (2013.12.1)



     



    ※追記 そう言えば、Alice Fes2013の最初、青羽の「そうじゃないのに」(演出キム・カンポ)が、舞台の上で俳優が変身を実現した、ほとんど唯一の例ではないかしら。



     象の飼育係とその父親が見ているうちに2匹の象に変わったのだが、飼われている象が可哀そうなどと思うヒューマニズムの傲慢と自分が象であることとは決定的に違う、ということを感じさせてくれた――と、他に書いたことがある。



     



     







     

     


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