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☆Alice's Review☆

  タイニイアリスで上演された作品の劇評たち ―Crazy Tea Party―
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劇団印象「枕闇」――真木素人
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    「枕闇」は、チラシによると、サイコ・アドベンチャー・ストーリーだそうである。サイコと聞くと、トラウマやカウンセリングぐらいしか思い浮かばなかった筆者にとっては、夢を扱ったということがまず斬新だった。しかし、精神分析の創始者であるフロイトは夢の研究もしたのだから、夢は元祖サイコと言ってもいいのだろう。

     灯成と砧華衣子はつきあっている。が、灯成は三度の飯より本が好きである。恋人の華衣子は、灯成の気持ちを確かめるために、自分の夢を見るようせまる。しかし灯成は夢の中で、華衣子ではなく本の虫の毛夢子と出会う。毛夢子は灯成の本を食べ始める。灯成は、その夢を見てから温度を感じられないようになってしまう。それだけではなく、体温が消えてしまう。体温だけではない。サーモグラフィーに灯成の体の内側の色が写らなくなってしまった。体の内側から、温度と色がなくなってしまう。本の虫に温度が食べられてしまったからである――

     あらすじの一部を少し書いたが、この作品に登場する音羽灯成はどうして、本の虫が出てくる夢など見たのだろうか。精神分析において、人間が夢を見るのは無意識の願望の充足だが、その願望の充足がそのまま映像として表われることはない、というのにである。

     作・演出の鈴木厚人にはきっと、夢と想像とが同じものだったからにちがいない、と、筆者は思った。

     そして、本を読むと本当に想像力は養われるのだろうか――というのが、鈴木厚人がこの作品で観るものに投げかけた問いであったにちがいないと思った。本を読みすぎるとむしろ想像力や考える力が育たなくなるのではないだろうか?と。灯成は華衣子を夢に見ることもできなかったし、最後に、華衣子の温もりを想像できない孤独な灯成が描かれて舞台は終わったからである。

    ショウペンハウエルもこんなことを言っていた。

    「読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。(中略)時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。(中略)精神も、他人の思想によって絶えず圧迫されると、弾力を失う。食物をとりすぎれば胃を害し、全身をそこなう。精神的食物も、とりすぎればやはり、過剰による精神の窒息死を招きかねない。多読すればするほど、読まれたものは精神の中に、真の跡をどどめないのである。つまり精神は、たくさんのことを次々と重ねて書いた黒板のようになるのである。したがって読まれたものは反芻(はんすう)され熟慮されるまでに至らない。」
    「さらに読書にはもう一つむずかしい条件が加わる。すなわち、紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではない。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いらなければならない。」(斎藤忍随訳『読書について』岩波文庫)

    役者の演技についてとりたてて言うことはないが、舞台に初めて登場してきたとき(第2場)の、家守ミッコと長名カンナのかけあいが鼻についた。今どきのギャル(って死語!?)はこんなふうに話すのかあ。

    | 劇評 | 11:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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