Avant-garde.前衛を意味するフランス語で、革新的あるいはその立場にある芸術家を指す言葉である。この “アヴァンギャルド”は、創るものから言えば伝統や慣習などあらゆる固定観念の解体に向けて自分の芸術を世の中に投げ込むこと。観客から言えば、既存の方法、方式を拒否し、新たな魅力を生み出すアヴァンギャルドは一言でいえば「新鮮」であろう。
しかしこの「新鮮」さも、時代があるいは現体制がこの芸術を受け入れると色彩が薄くなる。繰り返しによって慣れてくるに従って、同時代の人々が飽きてしまうからかもしれない。いずれにせよ「新鮮」は力を失う。
それなのに俳優ヤン・ペーシェクは、この「存在しないが存在可能な楽器俳優のためのシナリオ」を1976年の初演以来43年、今もアヴァンギャルドを標榜し、この一人芝居を演じ続けているというのだ。
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これは1968年に永山連続殺人事件という実際に起きた事件をもとにした作品である。高度成長期に拡大されていった貧富の差、社会的格差―-そのため増大した貧困や日常化された家庭内あるいは職場での暴力など、様々な社会問題が永山則夫という実存人物を通じて映し出されている。
永山則夫は北海道網走市で8人兄妹の7番目の子として生まれたという。父親は財産を賭博につぎ込み、母親は実家に逃げてしまい、兄には虐待を受けていた。東京に上京し集団就職してからも永山則夫は同僚からさえ殴られたり水をかけられたりしたのだそうである。彼はそうした差別や暴力、裏切りなどに遭いながら転々としていく。彼が米軍基地に侵入して盗んだ銃で4人を殺したのはその後のことだった。逮捕され、死刑が確定した。
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1.「恋愛日和」 キム・ドギョン作 李知映訳 吉村ゆう演出
確かに結婚についての物語である。しかし、結婚そのものついての作品ではない。作品における結婚というのは登場人物全員が共有する世界観であり、この部屋に住んでいるミョンウンとその恋人ドンウク、そこへ訪れてきたミョンウンの両親の間に起きるエピソードの到達目標として捉えられている。しかしミョンウンとドンウクが結婚するのかしないのかに正面から向き合っているわけではない。
ミョンウンの願いはドンウクと結婚することである。友達の結婚祝いのパーティーから帰ってきたミョンウンは、平常優越感を持っていた友達が先に結婚にゴールしたことがあまりにも悔しい。彼女は、結婚に「成功」することこそ、自分のステップアップにつながると思っている。この点については、両親も同じである。両者の差異は、結婚相手の条件に過ぎない。このように誰も結婚するということについては疑問を抱くことなく、その世界観の内でドンウクも含めて自分なりにそれぞれ行動するだけである。
したがって、この作品は価値観や世界観の衝突ではなく、近い距離にある人物たちの間に生ずるエピソードが中心である。
両親に二人の関係を隠さなければならないミョンウンはドンウクをテレビの修理に来ている人だと紹介し、ドンウクは慌てて部屋の中にあるテレビの解体にとりかかる。毎日欠かさず連ドラを見ていると言う母親がミョンウンに早く直してもらえと督促するので、テレビは連ドラが始まる前に直さなければならない。結婚もテレビを直すことももっぱらドンウクの手にかかっており、ミョンウンは自分のことなのに自分で解決することができないのだ。
しかし、ミョンウンのこの窮地は鮮明に演出されていたとは言えなかった。「恋愛日和」のセリフには二人の結婚を妨げるのは高い住宅費、残りの学費ローンといった現実だとある。しかし、ミョンウン、ドンウクに比べて望みをよりはっきり表出する両親を見ていると、両親の存在こそミョンウとドンウクが乗り越えなければならない「現実」、そのものであったろう。
愉快な作品であった。人物関係の設定から生み出されるシチュエーションを上手く使って観客を最後まで笑わせるコミックな一晩の出来ごと。気軽く楽しめた。
2.「感染」 イ・ソンホ作 金 世一訳 荒川貴代演出
舞台は椅子にかけたひとりの男。机の前にあるテレビが現実の状況を数値で知らせるのは、作品の持つ時事性の色彩を濃くするための装置として有用であった。ニュースは一人暮らし向けであり、一人暮らしについての統計を報道し、具体的な数値や内容を伝えるのではないがテレビCMも、劇の雰囲気をつくるに充分であった。社会人である主人公の孤独な顔にも疲れや寂しさが浮かんでいる。
この作品は、一人暮らしの持つ孤独感に焦点を合わせている。一人暮らしの人々の間に原因不明の伝染病が広がっており、その症状は家族がいるように会話をしたり行動したりで現れる、というのだ。こうした設定は、家族の不在が一人暮らしの孤独に結び付くという考えに基づいている。
主人公の青年は劇中2回妄想する。しかし男の孤独感は解消されず、孤独は一層深まったように見えた。最初は母との会話であり、2回目は妻と子供との話であったにも関わらず、である。そうすると、作品の方向性がぼける。作品の前提は、一人暮らしの孤独は家族の不在であったからである。
韓国社会が抱く経済的な不安や子供の教育問題などはセリフのなかで触れられていた。しかし、作品は作品の持つ時事性の重さに耐えられるほど堅固ではなかった。
3.「プラメイド」 ソン・ギョンファ作 李 知映訳 鈴木アツト演出
「プラメイド」は曖昧な作品かもしれない。ここでいう曖昧とは、ギョンソンにとってプラメイドはどんな存在かということである。一方的にギョンソンを手助けするこのプラメイドはどういう意味を持つか。
作品の序盤は、ギョンソンという人物についての説明である。一人暮らしの青年ギョンソンは就職を諦めてコンビニでバイトしながら消費期限の切れたハンバーガーを食べる。この彼の唯一の趣味はガンプラ作りである。
このハンバーガーとガンプラという2つのキーワードはギョンソンを通じて見られる若者の表象である。ここではハンバーガーという「食」よりガンプラに象徴される「趣味」のほうが優先されている。毎日必要不可欠な「食」より内面における自己満足の「趣味」のほうが上なのだ。
抽選に当選して配達されてきたプラメイドは、ギョンソンの家事を手伝う。汚い部屋の掃除をしたり、バランス取れた食事を提供したりする。ここまではプラメイドは、ギョンソンにとって面倒をみてくれる便利なものという以上の意味は無かった。
しかし、人工知能を搭載し、人間の感情を持っていないと自ら強調するプラメイドは、秩序や慣習に従うようギョンソンに強制する。プラメイドとしては合理的に行動しているにすぎない。が、その結果、ギョンソンに健康のための運動を勧めたり、終いには履歴書や自己紹介書を書かせたりする。合理的というのは今ある社会に順応するということである。
プラメイドはギョンソンの人生のために客観的にアドバイスする存在である。そのアドバイスは社会がプラメイドの口を借りてギョンソンに求めるものに他ならなかった。
4.「本当だって」 イ・インソル作 金 世一訳・演出
黒い衣装と白い食卓、これは二つの色しか存在しない世界を表現している。作品は真実と虚偽を判断しない。何が真実なのかより、記憶を用いて社会における多数と少数、その構図と、少数に置かれた者の孤独を見せることによって、社会で起きた様々な事件を思い浮かばせる。
記憶は過去にあった事実を思い出す作業である。そして、記憶には過去と現在が混ざり合っている。過去に対する現在の姿勢により、事実はいくらでも彩色されたり変造されたりする。この作品は、そういう事実を変えようとする人達とそれに悔しむ一人の人間に注目する。
また、ある時点において過去を取り戻すことができないとき、人間は戻るのを諦めて、それが間違いと認識しながらもそれを認容し自分を走らせるといった愚かなこともする。
]]>少年王者館の第39回本公演「シアンガーデン」(作・虎馬鯨、演出・天野天街)を8月22日、ザ・スズナリ劇場で観た。
古いアパートの3つの小さい部屋でロボットを作る男、少女と少年に天井から見える争いの絶えぬ赤い国について話してくれるおじいさんと日記を書く少女が暮らしている。ゴミみを拾い集め、それを組み立ててロボットを作っている男は引きこもりだ。ひたすらロボットを完成させることに夢中になっている。狭い四畳半部屋という物理的な空間で広い世界を描いている彼の夢は、ロボットで世の中をぶっ壊してきれいな街づくりをすることだ。
しりとりのような言葉遊びを用いたセリフを役者は余韻の効果を最大限活かして表現し、 舞台装置や照明、ダンスは完成度のが高い。音楽や照明は幻想的な雰囲気を漂わせる。とくに雨粒をイメージ化したダンスやロボットのような節度のあるダンスは作品の理解を深める。
この作品でもっとも注目したのは、描かれる世界観である。花と雨粒、ロボットを動かすために必要な塩分を求めて醬油を探すソノコ、植物図鑑が転々と渡されることは「生と死」の標識でもあるかもしれない。住人は生きているのか死んでいるのかも不明で、鬼ごっこをしながら遊んでいるのは生きる者が死者を探す儀式のようにみえる。このように作品では「生と死」が交わっているようだった。
作品はいくつかの物語に散乱しており、それが収まらず主題に向けて観客を引っ張る力は足りなかった気がする。また、人物間の関係設定にはあいまいなところがある。役者のチームワークは良かったが、それぞれのキャラは片面的で個性は見えなかった。
完成したロボットは自分の存在理由である世の中をぶっ壊すことができるだろうか。そして、きれいな街づくりを成し遂げることができるだろうか。すべてがなくなった「無の世界」に蘇生したロボットを応援したのは、新たな世界への期待感なのか。演劇が終わり、カーテンコールのときから浮かんだ疑問は、雨が止んだ後に湿気を帯びた空気のように残った。(2017.9.11)
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信じる、信じたがる。学校教育で教え込まれた歴史を。
個人に構築された歴史はなかなか変え難い。もう歴史的事実の真否はどうでも良い。歴史をみる視線の問題が浮かび上がってくる。
そういう意味おいてこの芝居は非常に衝撃的であった。「満州戦線」というタイトルから植民地時代、朝鮮半島から逃れて満州で暮していた当時の在満朝鮮人、あるいは独立運動をする苦難の歴史を描いたものだと思い足をはこんだ。劇の背景は1940年代始め、満州のある家庭である。
国を失った朝鮮人、いわんや満州に逃れた人々は究極の困難な生活をしていたと思い込んでいる。しかしこの劇では登場人物はある程度裕福に暮している。劇はもちろん歴史ではないが、既存のイメージを完全に覆してしまっていた。
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最後に、世界に愛される6人の芸術家たちがそれぞれ、芸術に対する悩みや欲望、コンプレックスなどを吐露し、観客に芸術とは何かという問いを投げかけて劇は終わりました。
]]>飛龍伝(つかこうへい作)は日本の全共闘を背景とした作品であり、今回劇団サムライナンバーナインの公演(吉見フレディ脚色・演出)は、その学生運動を指導する女と機動隊員の男との愛を描いた物語であった。しかし、この舞台を単に愛の物語だったと言うだけでは大きな部分を見逃したことになるような気がする。組織の中で失われていく個人が見えたからであった。
1.個人的に演出家の個性が現れている作品より、演出家は主題を投げるだけで俳優が作る舞台の方が好みである。その意味で「バスドライバー」という作品(古川大輔作・演出)は私の好みの演劇であった。
バスという限定された空間の中にいて指定されたコースしか回らない運転手、聡は金髪の美女を乗せてどこかにいくという一種の逸脱を夢見るが、それはあくまでも夢にすぎない。聡はまわりの人達からは人柄のいい人と思われているが、母親との関係は、兄貴である守が死んだのち悪くなる一方だった。その母親が彼の脳裏に浮かぶ=何年も会っていなかった母親がバスに乗りこんでくる。が、話は上手く進まず、またもやケンカとなってお互いに理解できないことを確認するだけで終わるのだった。最後に、死んだ兄貴が花を持ち、バスに乗ってくる。その兄貴と話して聡は母親の本音を知ることが出来、指定されたコースを離れて母親のところに向かって大きく方向転換していく――というのがこの作品の大筋であった。
近頃になく珍しい、新鮮な演劇手法と出会った。則末チエ作・演出「ファンタステカ」で、だった。
舞台は初め、遺跡。実力あり数々の実績もありながら世に遇されない考古学者と、彼を心から尊敬し、彼のために、その発掘作業が継続できるよう願って現場にそっと他からの採集品を置いて、明日に迫った発掘中止を何とか阻止しようとした学生との、愛と叱責から始まっていったので、てっきり、毎日新聞によってスクープされた藤村新一の旧石器捏造事件か?と思った。が、劇のポイントはここになく、まったく違って、その後のある日。 舞台はある百貨店の屋上、職を離れ食えなくなって?百貨店に掃除夫として働くようになっていた考古学者や、女性店員や客たちが思い思いに昇ってきて昼時を過ごす憩いの場に変わった。
しかし驚くのはここからである。しばらくするとその屋上が、周囲の、おそらくコンクリート壁であったろう褐色の幕たちが突然するすると引き抜かれて白幕へと変わっていき、床にもすっかり大量の白布が伸びて、舞台はみるみる真っ白の世界へと変貌していったのだった。あっと驚嘆した。歌舞伎に見る引き抜きがこんなにも大胆に、こんなにも見事に現代に再生したのだった。
屋上に居合わせた人々はそれから、水を、帰るところを、オアシスを求めて、この白い“砂漠”をさ迷い歩く。その困惑、状況探索、諍い、小競り合い、滑落事故などなどの右往左往が劇の大部分を占めた。が、中に、他とは別れて単独行動をした青年のひとりが、自動販売機からちゃんと飲み水を買って戻ってきたりして、あれ?と思う。
俳優になりたいと実家から出てきて、しかし今はコンビニだったかな?の店長してるという青年が、医者から脳腫瘍、余命わずかと宣告されるプロローグから、誤診だったと言われるエピローグまで。その下宿に七福神が入り込んできて、座敷わらしや河童や幽霊や……ここまで話したら聞いていた若い女性が、声出して笑った。そっかあ、なぜ貧乏神でなく 七福神? ここ東北だっけ? 河童が青年から尻こ玉を引っこ抜いたのをきっかけに青年は元気になったようだけど、あの、お尻から取れたものは青年の何にあたる? ……など、結構引っかかりながら見ていた私は、そんなこと考えてちゃいけなかったのだと思った。そもそもこの「俺んちに神様!?」(岡田茂作)、題名から!?がついてたじゃないかと。思いがけないことが思いがけなく起こることこそ、この作品の狙い。青年にとって死そのものはあまり問題でなさそうだったのも意図された意外の一つだったと考えるべきかも、と。
実際、次々青年の下宿に転がり込んで来る七福神は、死を宣告されたものの神頼み、夢か現つか出現してくる神々などでは全く無く、大神様から電話で、出雲の、年に一度の神々の集いにさえ来なくていいと言われるほどの役立たずたち、ごろごろしたりお喋りしたりただの居候だったし、青年の俳優志望も、心遣いの宅急便届けてくれる母親に諦めたとは言えないと言うので、演劇することの厳しさを想ったら、これまた、なりたかったのは赤レンジャーだったと肩すかしを喰う。もちろん店長という今の仕事に何か青年の思いがあるというわけでもない。
宣告された死より、舞台の彼のいちばんの問題は女友達だった。幕明く前にすでに彼女に大金を用立てていた青年が、またまた要ると頼まれるのだ。前の、資格試験を受けるからと頼まれたお金は美容整形に使われてしまっていたし、みすみす今度も同じことになりそう。前の借金どう返し、今度どう調達する?である。
しかししかし、その借金問題さえ、終わり近く、青年が河童に尻こ玉を抜かれたあとだが、なぜかやくざがローン取立てを断念してくれて、いともあっさり解消してしまったようだ。彼女も谷口神様に諭されて金の無心は以後止める、らしい。
意外!意外?によってただ笑いをとろうとしたかに見えるこの作品、ひょっとして現代の若者が描かれる?の期待は外されたけれども、しかし、何が起こっても不思議でない空間作るに、誤診という設定は巧みだった。誤診によって普通なら死後に想いを馳せそうだが、そうでなく、現実のほうに想像を広げたのも秀逸だった。
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意外の笑いが特徴のこの作品、誘われて私もひとことお笑いを言うと、もう一人の神様(谷口有、演出も)である。この神様は青年の留守中、七福神より先に下宿に入り込んで来ていたのだが、その神様の名を青年は、語呂が近くてしょっちゅう男性シンボルと呼び間違えていた。クスリと笑える箇所である。しかし呼び名のクスリだけじゃ勿体ない。いっそほんとに男性シンボルだったら?と思った。爆笑だったかも。
真面目に戻っていうと、終わりのほうでこの神様、青年には赤レンジャーのように人の助けになる仕事をするように、女性には嘘をつかず生きろといったようなことを真面目に、実に誠実に忠告した。が、そもそもこの神様、七福神同様、大神様から出雲に来なくていいと断わられた役立たずのひとり。その忠告が役に立つはずがない。が、再び、がだが、そのあまりの真摯に、青年も女性も忠告を聞き入れた。見ているものも襟を正した。それは神様役というより、まるで演出家のようだった。人生の先輩、といったほうがぴったりかな。ついつい芝居を離れ、谷口有さんその人の誠実さというか、愛が伝わってきてしまった。
語呂合わせやつまんないギャグによる上っ面の笑いはTVに充満しているが、ほんとの、心からの笑いは滅多にない。笑いは難しい。とくに喜劇は、同化の好きな日本において難しい。今回の「俺んちに神様!?」、青年をどう笑うかという本筋で決して成功したとは言えないけれども、タッタタ探検組合が何を志向したかは鮮明だった。そう言えばこれまでのタッタタ探検組合だってそうだったじゃないと言わなければならないけれども、今回はさらにはっきり打ち出されたと思う。困難な道だが今後も、日本の「喜劇」をタッタタ追求していってもらえたら……と願わずにはいられない。
もう一つ、今回の舞台に鮮明に表われたことは、演出の、一人ひとりの俳優へのこだわり、とくに俳優の体へのこだわりだった。七福神たちがみんなで踊るダンスや、スローモーションで飛ぶ弾に体を一人ずつ抱えた両サイドが争うなど面白い場面は見やすい例だが、そういう大勢の場面だけでなく、ちょっと出る俳優のたとえば足の運び方、頭巾の下の顔の伏せ方等々、あらゆるところに演出の細やかな目が届いていた。以前なら、体の動く俳優が精一杯動いて残りはその他大勢、ひとまとめといった感じが見受けられないではなかったが、今回は違って、一人ひとりにこだわり、その人ならではの魅力を、笑いを引き出そうと全力投球されていた。ここからも谷口有の演劇への愛が伝わってきた。(2011.11.23)
大きく言うと舞台は、テロ事件が頻発する東京23区(第1部)と、それが飛び火していった大阪24区(第2部)から成っていた(大阪がなぜ1区多かったか? 聞き洩らした)。そして第1部、東京の場には、大阪生野に生まれ、同じ生野の小学校に通っている男の子4人(日本人と、やがて日本国籍を取得する在日韓国人と、在日2人)が、仲良く生駒山から大阪の街を眺めるシーンと、中学生だったか大きくなったその4人が、同じく生駒で、1人は検事になる、1人は検事だったか弁護士だったか、とにかく法律の方に進むと将来の夢を語り、残る二人はヤクザになるしかないと語り合うシーンとが挟まれていたし、大阪へと場が変わり、テロ捜査や尋問が展開されていったその第2部は、最後、ヤクザの、それもひそかに大親分になっていた男(金光仁三)が、検事に出世していた男(○○○○)を思い切り殴り蹴りした挙句、撃ち殺すところで舞台が終った。検事が、自分に想いを寄せてくれた、そしておそらく男の子たちみんなの憧れの的でもあったに違いない美しい在日の女性――その親から結婚を強く反対されていた――が去る年去る月の23日に自殺するのをみすみす見逃してしまったから、であった。
以前見た「アルケー/テロス」初演。東京を、引いては日本を騒然とさせた大事件がみるみる生野へと集中していくのが何故かとても面白かったという記憶があるが、今度はなぜ大阪へ場が移り、事件が生野へと収斂していくか、その理由もなるほどと描かれていて、一層面白かった。警察をいきり立たせ、右往左往させたいくつもの爆破はいつでも、民間人に害が及ばないよう配慮されていたと、台詞だけだったけれど、あったのも良かった。ほんとに殺してやりたい敵は人でなく権力であり社会の構造だからだ。いっしょに見た人が出口で、在日は検事(刑事)にはなれないんだよと話しかけてきてくれた。
(○○○○の職業。初日は確か、検事になりたいであったが、後日見た時は、刑事になりたいと夢を語り、実際刑事になっていた。筆者の聞き間違いか?)
長く続いた現代口語演劇に飽きて、最近とみに身体表現に拠る演劇への探求が始まっているが、この「アルケー//テロス」の方法はそれとも全く違う。筋もあり台詞に意味もあり、フツーにやろうと思えばフツーにやれる芝居を、いかにフツーでないスピードと身体で立ち上げるか、それがいかに演劇の、もうひとつの魅力となるか、他に見ない挑戦と言えよう。今の日本にあるとも気づかなかった問題に目を注いだ着眼点の良さといい、次作への期待は大きい。
見た限りでちょっとだけイチャモンつけると、あまりにも激しい動きのためほとんどの俳優が声を涸らしていて、言葉が聞き取りにくかったこと。第1部に挟まれた過去の2つのシーン。ここをあどけなかったり生意気だったり、成長後との落差でいかに面白く、いかに観るものが共感できるよう演ずるか、もっともっと演出の工夫が欲しかったこと。最後の殺人の場、せっかく4人の友情の物語だったのだから、3人だけでなく想い出シーンのもう一人、のちに国籍を日本に変える男もその場に居合わせ、その反応が知りたかったなあと思ったこと。だった。(2011.10.09所見)
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本多愛也の「白球」、小島屋万助の「止まらない男」、そして二人の「死神」。久しぶりに、目と鼻の距離で見る3本立ては楽しかった。打者、審判、ピッチャー、観客、応援団、そして場外へ飛んだ大ホームランにふと目が止まり、心なごむ夕暮れの町の人々。20数人と聞いた大勢を一つの身体で瞬時に演じ分けていく「白球」と、食欲止まらず、初め山盛りの納豆ご飯から家中の食べられるものは全部食べつくし、終いにはトイレットペーパーや金魚まで、どんどん加速するスピードで食べていってしまう「止まらない男」。それぞれのキャラクターにぴったりだし、どちらにも、そこはかとないペーソスが底に流れていて、見る者の頬は思わずほころぶ。西洋パントマイムの型でなく私たちの日常の動きが基になっているのが、親近感の所以だろう。
]]>今日の観劇メモ アシメとロージー 第一回公演広島バッゲージ(1) @新宿タイニイアリス土曜マチネで観劇。"広島に原爆が落ちるとカノジョにふられる"というお話。劇団ナウでヤングが名前を変えて再スタートした劇団。何かとお世話になった方々が関係していたり、多数出演していたり。
今20代の若者が、広島・原爆をテーマにした脚本を書き、演じるということはどういうことなのだろうか。原爆という歴史上の大事件であっても、多くの人たちは確かに自分とは関係無いと思っているかもしれない。その前提から物語は始まる。
]]>“八百屋お七”をベースにしていることは、誰にも直ぐ分かろう。然しながら、輪廻転生を多少なりとも現代物理学的に解釈するのであれば、この程度の認識で世界の中心に居る、などと考え得ること自体、イマジネイションの枯渇以外のものを意味しない。これで劇作の、演出のと言われた日には、堪ったものではない。現代物理学を持ち出すのであれば、素粒子やクオーク程度の単位は用いて欲しいし、輪廻との関係を言明しておくべきである。
少なくともそれを言明した上でなければ、お七が転生する構造、可能性をその原理の上で説明できまい。配られた、作品についてのコメントを読むだけで、論理の不完全、不徹底と詰めの甘さを感じた。
]]>タイトルが「火蝶於七」だし、以前、作・演の高田百合さんに円乗寺にお墓参りしてから書き始めたと聞いたことがあるので、てっきり、歌舞伎の八百屋お七が――その通りだろうと作者の目を通して変容してだろうと――描かれるものとばかり思っていた。 現代の若い世代の目に、お七はどんなふうに映るか興味津々だった。
]]>演劇は映画や音楽とは全く違った魅力がある。ひと言でいえば、美しいだけではなく、汚い。それは人間がその場で息をし、セリフを話し、動くのだから生々しく、当然、きれいなことだけでは済まされないのである。
とりわけ、「Floor in Attick−屋根裏の床を掻き毟る男たち−」は汚い。舞台は2坪とない狭くて古くて汚い部屋。そこに顔が垢で黒くなった男4人が暮らしている。彼らは社会に背を向けて反抗的に生き、自らを鍋にべったりと張り付く「おこげ人間」と呼んでいる。寝転んだ姿のままでラジオ体操をし、体は新聞で拭き、下着は3年に一度しか着替えない。携帯電話もないので、ジャージャー麺の出前を手紙で頼む。日がな一日、他愛もない屁理屈をこね、食べ物や着る物を奪い合い、頭の寸法で大将を決めて過ごしている。窓から見下ろす道路には白いワイシャツにスーツを着て出勤急ぐサラリーマンやジョギングに白い息吐く市民たちが見える。彼らは皆、息も顔も白い。怖いからと、外の世界に出るのを拒む男たちは隔絶された世界で生きている。そこへ娼婦や女神や出前配達人など外部の者たちが男たちの家へ侵入してくる―。
]]>CoRich -http://stage.corich.jp/watch_done_detail.php?watch_id=81815 より
]]>◎観客に感染するエネルギー
新宿の小劇場タイニイアリスが韓国から演戯団コリペを招いて「Floor in Attic 屋根裏の床を掻き毟る男たち」を上演した。僕は昨年末の訪韓の際、大変お世話になった劇団なので(http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=1179&catid=3 の韓国演劇見学記をご参照のこと)、その恩返しをしたかったのと、昨年8月にタイニイアリスで上演された「授業」(作=イヨネスコ、演出=李潤澤)がとても素晴らしい作品だったので、この劇団を自分の周りの演劇ファンに紹介したいと強く思い、日本側のスタッフとして関わった。
続きを読む>>Wonderland ]]>10トンとか12トンとかと聞いたけれど、床いっぱいに敷き詰められた砂で、まるで海浜になってしまった場内。明かりが入ると、砂がムクムクと動き出して中から、日光浴で寝ていたのだろうか?青年が現れてびっくり。アリスフェスティバル(Alice Festival 2010)のオープニング公演・手作り工房錫村の「ムチムチ」(錫村聰作・演出)だった。
その、夜の海辺に入れ替わりやって来て交わす青年男女や高齢者たちの言葉は、デジタルTVや炊飯器など電気製品をいかに客に売りつけるかとか、テレクラの女とどうやって交渉成立に漕ぎ着けるかなど、ついつい笑ってしまうような無駄話?ばかり。が、考えてみれば、基本的に売り買いで成り立っているこの高度資本主義経済社会。ほとんどの言葉は、これと本質的に同じものではないだろうか。これは、現代社会をみつめようとする小劇場演劇の一つの果敢な実験であった。(2010.10.1 「東洋経済日報」より抜粋)
]]>大阪のホームレスたちのお話でした。関西弁にばらつきがあるのが少し気になりました。しかし客入れから役者が舞台上にいて、一人で語っていたのですがそれがわざとらしくなくて、本当のホームレスのようなリアリティがあってすんなり芝居に感情移入していくことができました。本番が始まって、まず登場人物の服装が少し綺麗すぎるのも気になりました。しかし後半になって辻褄があいました。
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